1.〜私の「お話し」My Story〜

いつの間にか進んでいたスピリチュアルな世界

気づけば、キャリアも思考も180度転換どころではなくて、別の次元にシフト

今までせわしなく動き回り、迷い、壁にぶち当たったりしていたフロアから

エレベーターでふわりと上の階に上がった感覚

現実世界からの逃避ではなく、高い見地からよりリアルに全体像を捉えて

自主的に意識的に選択しながら生きていく

スピリチュアルな道は、己とは何者なのかを知る自己探求の道

それは自分の外ではなく内に「創造の瞬間」から存在します




〜人生は愛すべきイベントと設計図であふれています〜

はじめまして。PARAMITA Healing Schoolの講師をしているPARAMITAです。「PARAMITAさんはいつからスピリチュアルな世界に入ったんですか?きっかけとかあるんですか?」とよくご質問いただきます。はい、スピリチュアルな道に入るまでも、入ってからヒーラーとして活動するまでも、スクールを開設するまでも、その後も毎日沢山の「イベント」に溢れています。今までの人生のことを数ページで書くことは不可能であり、現在公開できない部分もあります。すべてはいつか、本にまとめたいと思っていますが、今はこのスペース使って、ちょこっと私の「お話し」をしたいと思います。


私が大人になってからハッキリとエネルギーや見えない力を確信したのは、30代はじめに南インドのArunachalaを訪れた時でした。当時の私は、インドで出口の見つからない迷路の中でもがく毎日を送っていました。有名大学卒業、海外留学、大学院修了、憧れのアメリカのワシントンDCでの就職、などのエリート街道から逸脱し、途上国でのキャリアを積むべくバックなしてインドへ。国際開発の世界でキャリアを伸ばすために現地のNGOに籍を置かせてもらいながら、古典舞踊や音楽の道にも進みました。

芸術の世界の競争のストレス、文化的違いと圧倒的な経済力の差から日本人である私を利用しようとする現地の人への不信感、描いていた理想のキャリア像とかけ離れていく現実。体調も悪く、年中扁桃腺が腫れ、微熱が続き、体も心も疲れきっていました。自律神経のバランスを失うと、骨格にも歪みが出てきます。舞踊の技術をあげようと練習しても、すればするほどバランスを崩していく。元来頑張り屋なため、空振りをするとなると完全に壊れるまで空振りし続けてしまう。何かがおかしいと思いながらも動くことを辞められない。

腎臓も悪くし、頭髪はみるみるうちに抜け、心と体は崩壊状態でしたが、古典芸能の世界とインドという古い社会が求める「正しくあること」「従順であること」「清くあること」という暗黙のプレッシャーを無意識で飲み込み続けていたのです。



〜優等生であるために〜

経済的な理由で教訓を受けられなかった両親から受けた大きな期待に応えるべく、下に生まれた弟よりできるお姉ちゃんとして周りから愛されるべく、小学校から受けていたいじめに打ち勝つべく、見た目のコンプレックスを補うべく、キャリアで成功するべく、「エリート街道」から退いたことを後悔することなく進むべく、私は幼い時から自分の体と心に鞭を打ち続けていました。

インド時代を振り返ると「よくあの状態で精神崩壊にならずに生きていたな」と思うのです。自分自身で好んで鞭を打っていました。そして、いま、より高い見地から振り返って思うのです。鞭を打って限界まで自分を追い詰めることで、ようやく私は鞭をしまうことができたのだと。視力の悪い馬が暴走し誰も止められなくなると、馬自身が納得するまで迷走し壁や柵にぶつかってハッと我にかえる瞬間を待つしかありません。人がまともにぶつかって止められるような相手ではありません。

スピリチュアルなセッションで、リーディングの内容を受け入れられなかったり、自論と自分のやり方を主張し続ける方がいらっしゃいますが、その心理状態はよく理解できます。人は納得するまで「暴走」し「迷走」する自由な意志を持った生き物であり、その意志は尊重されるべきものです。迷うこと、立ち止まること、もがくことはとても愛おしい人間らしい姿です。

自分で自分に鞭を打っていたことを攻めたこともありましたが、今ではその全ての経験が私の魂が作っていたブループリント(設計図)だったとわかり、責めることをやめました。経験のおかげで、今はリーディングやヒーリングを他者に行ったり、指導したりできるようになったのです。そして、変な優等生癖は、諦めないで求め続けるという私の長所であると受け止められるようになりました。



〜破壊の国へ行くまで〜

インドに行くまでの経緯をお伝えする必要があります。日本の大学を出て、スウェーデンの大学とイギリスの大学院に留学し当時は珍しかった学問分野に触れ、国際開発や環境保全の「司令部」であるアメリカのワシントンDCにある現地の研究機関に就職。カタチとしてはその業界での出世街道にトントン拍子に20代で進むことができました。しかし、「世界のエリートたちと同じ空気を吸える環境に身を置けるようになった」と喜ぶ余裕など全くなく、学生時代に憧れていた職業で働く人々と実際に交流し、その中で自分自身も働き、想像や憧れと現実とのギャップを目の当たりにする毎日でした。自分自身の能力のなさ、世界レベルの本物になるための険しい道のりを突きつけられる日々でした。世の中には信じられないくらい勉強も仕事もできる人材がいるものです。上を見るとキリがありませんし、自分の立ち位置を認めざるを得ません。

学歴や肩書きなどは、人の表面しか映し出しません。ワシントンDCで肩で風を切り、いつでもサクセス ストーリーを自信たっぷりに語るエリートたちのマスクの下にある本音や苦労、熾烈なポジション争い、プライベート生活や健康の犠牲も、あの環境の中で働けたからこそ間近で見ることができました。名実だけでなく、心の豊かさも含めた本物にたどるつけるのは、本当にごく少数の人たちなのです。少なくとも、当時の私の価値観と経験では、そう見えました。「このままではだめだ。アメリカで正規職員として働けているというだけで終わってしまう。ちっとも理想の自分の姿なんて確立できない。実力がなければ、途上国での経験がなければ、このまま今の状況に甘んじて終わりだ。かといって、今から日本の財団や国の機関で就職して階段を一歩ずつ上がるなんて時間がかかりすぎるし、派閥もあるし、試験も受けないといけない。。。。」と悩んでいるときに、オフィスに、業界では有名なインド人の学者が来ました。

神様っているんですよ。その「神様」というのは、宗教的な神ではなく、自分自身のハイヤーセルフであったり、天使だったり、言葉では表現できない「偉大なる何か」なんです。宇宙と表現する人もいます。神は実際の人を介して私たちを導いてくれることがあります。

とにかく、私は何かによって、自信に満ちたそのインド人とお話しする機会を得ました。彼は当時恐らく50歳くらいだったと思います。「インドに関する修士論文を書いたんだろう?君が選んだあの地域は面白いところですよ。インドはね、広くて、それぞれの地域に美しさがあるんだよ。君が本気ならば、現地のNGOに行って、働かせてもらうのがいい。お金にはならないよ。だけど、ものすごく良い経験ができるだろう。僕がいくつかの団体と繋いであげよう」とおっしゃってくれました。国のバックも何もない個人の私を現地の団体がまともに扱ってくれたのはこの方のおかげでした。

思い切って私は仕事を辞めて、バックパックでインドの現地のNGOの偵察に行くことを決意しました。DCで血眼になって国際機関の職員のポジションを狙ったり、今の仕事をキープしたりしている周りの人たちには驚かれました。「このポジションを捨てるのか?何もバックのないままインドに行く?お給料なんて雀の涙だよ。そこで経験を得たとしても、先のキャリアの保証なんてないよ」という顔をされましたし、中には嘲るように笑う人もいました。「これでこの人の業界での成功への階段は崩れたな」と面白がる人もいました。のちにインドに行き、開発のキャリアをほぼ捨てて芸の世界に入った時に、「ずいぶんおちぶれたもんですね」ってハッキリ目の前で言ってきた方もいました。そうですね、外から見たらそうだったと思います。でも、自分に満足しないまま悠々とお給料だけもらってパーティーで仮面をつけて社交するよりも、とことんおちぶれてでも自分に納得したかったのです。そんな私の意志を尊重してくれた家族には今でも感謝しています。




〜カオスの中の「旅人」〜

アメリカでの勤務に終止符を打ちインドに渡ったのが27歳。インドという国は「なんでも有り」な国だと思います。人間として経験できるありとあらゆるものがカオスのようにあちこちで勃発する毎日。怒りで頭が狂うのではないかという出来事もあれば、感動に打ちのめされるような人間愛もある。

いくつかの地域の視察のあとで私が選んだのは、有機農業の普及や、子供達の環境教育をしているコルカタの団体でした。現地語ができないと農民との意思疎通が不可能なため、必死でベンガル語を勉強しました。Ramakrishna missionという宗教組織があり、そこのベンガル語コースに通いました。聖者ラーマクリシュナを祀った組織ですが、宗教という枠にとらわれない自由な側面を持つ団体です。宗教とかスピリチュアルなことは怪しいものと捉えていた私はラーマクリシュナにはさっぱり興味などなく、ひたすら仕事のためのベンガル語を学ぶ場所として利用していました。

元来外国語が得意なのに、このベンガル語ではかなり苦戦し、先生にも「日本人はもっと早く吸収できるはずなんだが」と「劣等生」のレッテルを貼られました。これには自分でもびっくり。ベンガル語の能力が飛躍的に上がるまで1年半かかりました。

言語のストレス、遠慮なく私生活やら仕事のことを根掘り葉掘り大きな瞳で訪ねてくるベンガル人。お金のためなら平気で嘘をつく人たちもいる。それは、開発プロジェクトの現場でも起こります。農村開発は美しい側面だけでなく、貧しい農村とNGOや国際機関の間の駆け引きの世界。農民、職員、家のお手伝いさん、市場やお店の店員と、生活でかかわるほぼ全ての人を疑いの念で見ていかないと自分の全てが吸われてしまいます。まずは毛根の栄養から吸われたようで、病気の人のように毎日ゴッソリと髪の毛が抜けていく。それをお部屋の掃除のために強制的に大家が送ってくる男性のお手伝いさんが毎朝ケラケラ笑いながら床からかき集めて摘まんで遊んでいる。本当に遠慮の「え」の字もないのです。

現地になかなか溶け込めないというよりは、いつのまにか大勢の餌食になり、弄ばれている自分がいたのです。人をあらかじめ警戒して付き合うのが当たり前の社会にピヨピヨのヒヨコが入っていったのです。悲しかったのは、諸々を捨てて渡ってきたのに、開発の現場のあらゆる矛盾でした。国際紛争解決という大学院での学問が机上のものである部分が多いのと同様で、開発の世界の現実も内部に入ると色々と見えてきてしまうものです。

しかし、「いつか去る旅人」と現地では捉えられていた私のひとつの大きな特権は、ベンガル人の本音を聞けたことです。あの古い社会では、一昔前の日本のように、本音と建前がはっきりしており、決して口には出してはいけないものがあるのです。それは、一生黙って胸の内にしまい込んで墓場まで持っていかないといけない。暗黙の了解。ですが、現地語がわかり、しかもインド人が好意的にとらえる日本人であったために、随分と沢山の秘密を打ち明けてくれました。彼らの感情の「はけ口」となったのです。そのことで、私はインド社会の隠れた実態をより深く理解できたのです。人間の内面があぶり出されるインドで、人間とは心を持ち、人生というドラマの中の主人公であり、いくつもの仮面を被り分けて生きていく、もろくもたくましい、憎くも美しい生き物であることを学びました。

また、コルカタの障害者の施設や、売春街に産まれた子供達に英語を教えたり、ダンスで交流をしたり、家以外に失う自分の所有物などほとんど何もないくらいに貧しい農民の家計や畑の調査や、ベンガルの瑞々しい自然は私の心を潤してくれました。家系に伝わる生き方、カーストで定められた習慣を変えようという発想すら持たない人達を見て、自分がいかに物質、経済、精神的に恵まれているのかも再確認しました。NGOや先進国の人間は、貧困や差別に関与して改善できる力もあれば、何も手出しはできない無力な存在であるという厳しい現実も突きつけられました。




〜インド舞踊〜

悶々とした日々の中で始めたのがカタックというインド舞踊や古典音楽でした。ここで、強制的にヒンズー教の神々のことを学ばされました。宗教的な学びというよりは、踊りの振り付けや歌詞の理解のために。今でも当時の私の先生達には感謝の気持ちでいっぱいです。外国人だからといって不当なレッスン代をとることもなく、インドとの文化や宗教を押し付けることもありませんでした。知的な方々で、芸術の本質を心から愛している人たちでした。本当に惜しみなく、私が理解できることだと判断すれば何でも教えてくれました。アーティストにありがちなジャッジや人との比較や名声欲からはかけ離れたところで「本物」をキープしている方々でした。彼らは、もう世俗的な部分を経験し「超え」ていたのです。

彼らの中にある美しい本質をいつも私は見せてもらっていたのです。彼らは本物のグル(「光の方に導く者」という言葉で、指導者という意味合いを持ちます)でした。本物のグルは、お寺や修道院や山奥に行かないと会えないわけではなく、料理人、銀行員、理髪師、母親、父親、娘、息子、という普通の姿で、実に人間らしい普通の生活をしていたのです。ただそこに存在するだけで美しい周りにを温かい愛のエネルギーで包んでしまう、そんな方の側にいられただけで、実は自分は大いなる真理に触れていたのだということが、10年経った今、私の心の中で事実として光り続けているのです。

私はインドで光りを見つけていました。それは、超常現象とか、霊的な体験というのを期待していなかったときに、すでに目の前にあったのです。

そして、インド舞踊の先生はこんなことを言ってくれました。「私は芸の世界の政治や競争から一線をかくすことにきめたの。心に平和を持ち、ただ喜びのために、自分のためだけに、神とつながるためだけに私は踊りたい。大きな舞台で踊るには、波は避けられない。舞台裏で起こる諸々に私は耐えられないから、部屋の中で踊って、数少なくても私から学びたい人に教える。それで私は幸せ。私のところで学んでも、何のチャンスも来ないから生徒たちはある程度学んだら有名な先生のところに去っていく。先生達は喜ぶでしょうね、だって、私ほどちゃんと踊りの型やリズムを教える人はいないわ。どこに行っても驚かれるはずよ、どこで習ったの?って。悔しいわよ。でもね、その生徒がそれで伸びるんだったらいいと思ってる。仕方ないわ」と。

そして「あなたは何かに愛されている。芸に対して誠実であることは報われる。あなたは正直なところ、歳をとって踊りを始めているから、技術は伸びない。だけど、素晴らしい脳を持っている。小さい時からやっていたら世界的なダンサーになれたわ。でも、それはあなたの今回の人生ではきっと必要のないこと(おっしゃる通りでした。のちに自分の過去生を見ることになるわけですが、一流のアーティストになるということはもう過去の人生で私はやり終えていたのです)。無名な私のところにいながら、賄賂もコネもなくしてこれだけ大きな舞台の話しがあなたには勝手にやって来る。テレビやメディアにも出ている。不思議だわ。難しいことはやらなくていいから、ひとつの小さい花を舞台で美しく咲かせなさい。どんな花がいいのかは、あなたのレベルをみていくらでも選んであげるわよ」と付け足しました。

先生が話していた「小さな花」の意味が今ではよくわかるのです。花は誰とも競争したり、横の花を邪魔したりしません。どの花もそれぞれに美しい。本来の完璧なる姿を、ただただ皆が咲かせる。大きな薔薇でも、福寿草のような小さな花でも、それぞれが完璧に美しいのです。自分の持つ個性や味をまとまりよく表現できればいい。のちにインド舞踊を指導するようになってからも、PPARAMITAで指導している現在でも、その人がその時のベストな花を咲かせられるように指導することを私も大切にしています。





〜シバは踊る〜

農村や田舎の自然の美とは裏腹に、スラム街の子供達との交流や農村開発の仕事で経験した理想と現実とのギャップで悩み、国際開発畑での将来のキャリアを想像できなくなっており、舞台に立てば芸能の世界の独特の人間関係と政治がある。自分の心のオアシスはインド芸術の深遠なる美であり、指導してくれる師匠達と、数少ない信頼できる友人でした。

今でもおそらくそうでしょうが、インドには、慈善活動や開発活動、医療の普及や伝統芸能を学ぶために世界中から多くの人がボランティアや社員やアーティストとしてやってきます。現地語ができて、経験のある人として段々と人に紹介されるようになっていった私はそういう人たちと交流する機会も得ました。多くの人が、良い思い出と共に、この国の社会に疑問をもち、諦めと怒りを抱えながら去ったことでしょう。現地の文化を知れば知るほど、変えがたい伝統とカーストシステムの問題が目につくようになります。程度は違うとはいえ、これは日本人でも他のどの国にでもあることだとは思います。

嘘をつくことが当たり前になり、人格が豹変し、発狂した知人もいました。それは、あの環境の中でその人達が選択した自己防衛方だったのです。繊細で優しい人ほどそうなる傾向にあった気がします。彼らの心理状態が痛いほどわかるので、責める気も、見下す気も、嫌う気持ちも起きません。その環境の中で生存していくための手段だったのです。それをただ事実として受け止める心の強さをいつしか自分の中に養っていました。

私たちはあの土煙の立つカオスの中で、聖と悪に翻弄され、一度自分のプライドも固定概念も期待も後ろ盾も、全てを破壊されるためにいたとしか思えないのです。ニュージーランドから来ていた看護婦の友達が言ってました、「この国は一度自分のすべてを粉々に破壊する。それらの粉を自分でかき集めて自分を再構築するのよ」と。再構築できない者は、粉々の心を抱えたままとなります。再構築して健康な精神状態で生き残るためには、強靭な精神力と、物事を水に流す柔軟性と、不必要なものは完全に拒否するという行動が求められます。

ヒンズー教の最大の神であるシバ神は、トラの毛皮を腰に巻き、ダマルという太鼓を打ち鳴らし、灰で全身を覆い、クンダリーニ エネルギーの象徴である蛇をたずさえて、大地を踊りながら破壊します。シバ神は破壊と再生の神とも言われます。始めに書いたとおり、インド滞在の3年半の間に、自分の中のありとあらゆるものが崩れていきました。それは、アイデンティティーを失うようなものでした。今まで自分を表現するすべて(学歴や職歴)が自分に当てはまらなくなってきたのです。ただの言葉でしかないような。。。。薄っぺらい紙切れのような。。。。言葉も紙も使いかた次第では役立つものですし、身分証明書や保証書のような役割をしてくれますが、肝心の私本人としっくり合わなくなってきたのです。

心は農村開発というより芸能の方に惹かれていましたが、その芸能の世界も厳しいものであり、生活の保障など全くないのはわかっていました。そして、常に人と比較し、比較され、嫉妬と競争のエネルギーの中に身を置くことになるのです。人生という舞台に、踊りや音楽という芸能の舞台に、光と影の共存という地球の実態をみたのです。それは、私が見るべき光と闇だったのです。



〜愉快な魔の3日間〜

私は無宗教です。同時に、世界の大きな宗教はどれでも受け入れられます。ユダヤ教も、キリスト教も、仏教もイスラム教も、聖書やコーランや教義というヴェールが対立や誤解や矛盾を産み出しているだけで、どれもが真理を言い当てているからです。そう思えるようになるまでの道のりは長かったですが、あの3日間の体験が、世界や人間を見る私の「目」を変えました。

宇宙の計らいで、とあるヨーロッパ人のアーティストさんと南インドのArunachalaを訪れることになりました。インドでは、北と南で文化や風習や言語が全く違います。北インドにいた私には、南インドのことなど殆ど何も知らず、そこが聖地であるらしいことだけインターネットで知り、現地でそのアーティストさんと落ち合いました。その方は、実力のあるダンサーで自分にも他人にも厳しい、芸に全てを捧げている方でした。彼女は、その聖地を訪れ、シバ神の力が宿るという山を一周しようと提案してくれました。インド舞踊を踊りながらも、私は神を信仰するとか祈るということはほとんどしない人生を送ってきましたが、スピリチュアルなことに興味はありました。彼女は、「一流のダンサーになるにはクンダリニ エネルギー(第一チャクラにある性エネルギー。生命力)を開かないといけない!」と話してました。クンダリニ エネルギーを開花させると、超能力やあらゆるパワーが倍増する、という考えはよく聞かれる話です。

私はのほほんと、「面白そうだからついていってみよう」という気分でしたが、彼女は本気でした。彼女が欲しかったのは、サイキックなパワーだったのです。話しているうちに、彼女の目に何となく恐ろしいものも感じました。私の心やエネルギーを読もうとしているのがわかりました。「こんなボーッとした実力のない子が、どういう手口で大きな舞台に立てているのか」という探りだったのです。しかし、それにはっきりと気付くのは3日目になるわけで。。。それくらい当時の私は無防備で、聞かれた質問にはペラペラと何でも正直に話していました。

クンダリニ パワーを開花させたい彼女の情熱はものすごいもので、私は首にリードを付けられた子犬のように、パワーが宿ると言われる寺などに引っ張り回されました。お寺の中でも、彼女の目はギラギラと輝き、ハイエナのように自分が行くべきスポットを嗅ぎ分けていきます。一方の私は完全に普通の観光客で、相変わらず彼女からしたらどうでもいい所を見たり、どうでもいいものを買っていたと思います。そんな私に呆れた口調で「あなた、そんなものに興味あるのね。ふーん」と何度も発していました。それは、「こんな素晴らしいパワースポットにいながらその価値のわからないおバカさん」ということだったのだと思います。そうでしょうね。前知識ゼロの子犬がお寺の中で遊んでいるだけですから!今思い返すと、すべてがコミックのようにおかしくて滑稽で、愛すべき思い出です。それこそ、宇宙からのプレゼントでした。

さて、そのお寺でコトが起きたのです。インドでは、お寺には「魔物」がいます。聖人やお寺の人間のフリをした偽物の僧侶です。外国人をみては、ガイドをして高額のお布施を要求します。自分には特別な力があり、それを伝授できるなどといって別室に呼んで女性と性的関係を持とうとしたりするのです。クンダリニ パワーのことで頭が一杯の彼女と、何もわからない子犬の前にもバッチリ現れてくれました、偽物の僧侶が。「寺の中に入りたいだろう?特別なプジャをやってあげられるよ」と。「うさんくさいな。これはコルカタのKali ghatと同じ状況ではないか」と思う反面、ちょっと面白そうだな、と思うわたし。積極的に「僧侶」に話しかける彼女と、妹のようにおとなしくついている私。彼女と何かの交渉をしている僧侶は私の方をみて、「そうか、お前は英語とベンガル語を話すんだな」と言ってきました。

そして、薄暗い礼拝堂の中に案内されました。私はたまたま石のブレスをお寺で買っていたのですが、
「それにエネルギーを入れてやろう」とお金を要求することもなくやってくれる僧侶。それを羨ましがり、「私にも何かを欲しい!」という必死な彼女。お金を要求されることはなく、今思い返しても、少なくとも私のブレスに変なエネルギーは入れられずに済んだのはラッキーでした。

そして、御堂から出て、お寺の裏に連れて行かれました。いよいよ、その言葉が発せられました。「君たち、クンダリニの修行を知りたくないかい?」と。待ってましたとばかりに顔が輝く同行者。知るためには、翌朝の朝その寺にもう一度来なさい、とのことでした。知りたいけど、何が起こるのかわからない不安で迷う彼女。私はの心は決まっていました。私にはそれは必要のないことで、体験はしないと。でも、彼女のが行くのであればついて行って見守らないといけない。

生返事をして、私たちはオートリキシャに乗り込み寺を離れました。「あの人確かにサイキックだわ。私の中に龍のエネルギーを入れた。これがいいものだか悪いものだかはわからないけど。まあ、龍はパワーはあるわよね!」という彼女。サイキックなパワーはあることは魅力なんですよね。これが本当に怖いところです。サイキックな能力は誰もが持っているもので、開くことはできます。しかし、やり方を誤ったり、人格の成長が伴わないと、それは自分や他者を傷つける剣となります。誰かが使う剣が悪(それは自分の中にある身勝手なエゴ、嫉妬心なども含みます)を断ち切る剣なのか、逆にネガティブなものを引き寄せる剣なのか見極めるのは自分の勘です。

龍の話をする彼女と、自体をドキドキしながら経験している私を乗せて、リキシャは進みます。私はテルグ語はさっぱりわからないので、オートリキシャとの交渉などは彼女に任せていたので、相変わらずポーッとしてました。

と、その時、はっと気づくことがあったのです。なぜあの僧侶は私が英語とベンガル語を話すことを知っていたのか!?そういえば、私は一言も発しませんでした。そして、私にはそう言った僧侶の口も動いていませんでした。彼は私のエネルギーを透視したのです。私のオーラの中から、私の情報を引き出していたのです。そして、テレパシーで会話をしてきたのです。それが、初めて直性体験したサイキックな能力というものでした。


Arunacharaにいる間の大きなイベントは、先ほども書いたシバが宿るといわれる山の周りを巡る事です。冷水で全身を洗ってからでないとその山を巡ることは許されないということ。彼女の目もあるため、翌朝、日が昇る前に起きて、震えながら行水。髪の毛を乾かすドライヤーも暖房設備もありません。修行のひとつですから、空腹のまま2人で山道を歩き始めました。

山道といっても、有名な聖地で、毎年多くの人がその山を巡るわけですから、ちゃんと道はあります(インドというのは、実に面白い国です。信仰には完全なる自由が与えられます。奇妙キテレツな修行や、聖地巡礼や礼拝の宝庫です)。しかし、街灯はひとつもありません。真っ暗な中を歩くのです。そして、道には、シバの信仰者の男性たちが奇妙な格好で立っています。シバのようになろうと身体に灰を塗って真っ白な人、シバのように長くした髪を頭頂でおだんごにしお手製のヤリを持つ人、薬物でサイキック能力が開くと勘違いしているラリッた薬物中毒者が、私たち2人を見ては「ああ、食べ物を恵んでください!」と話しかけたり近づいてくるのです。「これは大変な話しに乗ってしまった!」と後悔した時には時既に遅し。彼女の前で弱音などはけません。とにかく早足で、逃げるように道をスタスタと必死で歩く2人。

途中で、そのダンサーさんが昔から知っているという知人と遭遇。喜ぶ彼女。「ほら、私にはシバがついてるのよ!」と。シバのご利益があるのかどうかはどうでも良くなっていて、早く歩き終えたいという気持ちだけでひたすら歩く私。普通5時間以上かかるらしいのに、2人は何と2時間くらいでまわってしまいました!普段踊りの練習をやっているにも関わらず、ふくらはぎはガチガチに固まりました。疲労困憊でやれやれやっと終わったわい、という感じの彼女の横で、私は不思議な力が身体に沸き起こるのを感じました。確かに肉体は疲れているのですが、身体が軽いのです。そして、生命エネルギーに満ちていて、心が強くなっています。疲れているのに疲れは感じない。朝早くからやっている小さなレストランで朝食を頼みました。私はものすごい食欲で、モリモリと食べました。単にお腹がすいているというだけの食欲ではないのです。扁桃腺が腫れ、いやな微熱を年中持ち、胃が痛くて、足の皮が割けたボロボロの肉体という「衣」をまとい続けてきた私の心が「生きよう!」としているのを感じたのです。生きる、生きてていい、生きよう、まだ見えない何かに希望を持って。

「わー、すごい!何だかわからないけど身体が元気になってる!」とはしゃぐ私を横目に、彼女は冷ややかな視線を送るだけでした。

日もすっかり高くなった頃、前日のお寺に恐る恐る2人で行ってみました。「もしもあの僧侶がいた、私は習いにいくから、そのときあんたは外で見張っててよ」という彼女。そのつもりでドキドキと進みましたが、約束の時間をとうに過ぎていた事もあってか、神の配慮か、彼はいませんでした。

それでも、私は浮き浮きしていました。ようやく、「神秘のインド」とういものを体験できて、この辛い身体と心から解放される日がくるような気がしたのです。


ところが、本当に怖い事が待ち受けていました。のほほんとしていながらも、何となく霊的な体験をしていき、ルンルンしている私にとうとう彼女の怒りが炸裂したのでしょう。細かい事は忘れましたが、何かをさぐるような、獲物をねらうような言葉と態度と目つきが本気に変わっていきました。それでも、突然逃げ出すわけにも生きません。何かを迫られても、ごまかしごまかし返答していると、ついに、「わかった、あんたは天然ってやつね!それだけなんだ!」と叫んだのです。それはしめたと思いました!天然ボケのフリをして、あと少し乗り切れば、解放される!その作戦は数時間は効果を発しましたが、とうとう別れる前日の夜、彼女が豹変します。きけば、母国でも色んな秘技をすでにやっている様子ですし、人の心や身体を読み取れる能力のある人に近づいているようなのです。あまりいい人達ではない気配がしました。「あんたって一体何を考えてるわけ?」と、私の目をじっと見てきたのです。あれは、まさに第三の眼で人のエネルギーを読み取る時のものでした。

邪心で人にサイキックな能力を使うと、人は負のエネルギーを発します。愛のある透視とは逆のものになります。彼女のエネルギーが身体の中にわっと入ってきました。無遠慮な欲の塊のエネルギーに、私の身体は硬直し始めました。どうやっていいのだかさっぱりわからないまま、とにかく、必死で自分を隠そうとしたのを覚えています。ほんの10秒ほどのことだったとは思うのですが、エネルギー的な護身を初めてやったのはあの時でした。

霊的な能力は清い心で行使しないといけないものだと宇宙に教えてもらう3日間でした。

この3日間の経験を歯切りに、霊的な能力のある人達のお話や霊体験を打ち明けられることが増えました。インド古典音楽や舞踊は本来、神と繋がるためにあります。中には、霊的な体験をするアーティストもいますが、様々な理由から、なかなか人には打ち明けない人が多いでしょう。私に打ち明けてくれたのは、インドを去る外国人であり、インドに生まれ落ちていない分自由な考え方を持っていたからだと思います。そしてもうひとつの理由は、その人達がそういう神秘体験をしたときは、人生の中で絶望の縁にいた時、大失敗をしたときに起きる事が多かったからだと思います。悲しい体験の本当の部分はそっと心にしまっておきたいものです。なぜならば、同じような辛い体験をした人でないと理解されないからです。興味本位でもてあそばれるようなことはしたくないものです。かく言う私もそんな1人だと思います。

Arunachalaからコルカタに戻り、インドを去る半年後の最後の夕方まで、不思議な人に出会うことは続きました。目に見えない何かが動いていたのがわかりました。知り合ったばかりで、もうすぐ日本に帰るというのに「あなたには私の秘密を打ち明けられる事ができた。どうぞ幸運を」と秘密の品々をくれたり、助けられたりしました。相変わらず身体と心はズタズタで、インドのイの字も見たくないと思う毎日でしたが、そういう人たちがいたおかげで、私は人を信じようという気持ちを捨てずに済みました。



〜シバは踊り続ける〜

インドでの生活に限界を感じ、帰国した私は、自分のアイデンティティーを無くした迷い子のような気分でした。海外生活が長かったため、日本社会にはますます溶け込めない自分がいました。インドでは、確かに苦しい経験もしましたが、私の中の何かを壊してくれたのです。恐らくそれは完璧主義とか、正しくある、というプログラミングでしょう。鬱に近い状態でした。周りには、自分の体験や心理状況や身体のしんどさを理解してくれる人は正直1人もいませんでした。家族でさえ理解できないのです。仕方がありません。インドを深く知り、カオスと善悪を全身で浴びるような経験は日本ではあまりあり得ないからです。

国籍は日本人だけれども、ヨーロッパやアメリカやインドで生活をし、ホワイトカラーの仕事から農業や芸術の世界に移り、どこでバランスを取れば良いのかわからなかったのです。日本に帰ってからも芸術の世界のごたごたは存在しますし、何より自分自身のことがよくわからない。この先何を目標に生きていったらいいのかわからない。何を信じたらいいのかわからない。娘を授かり、何不自由ない生活をしていても、私の心には大きな穴が開いていました。インドで崩されたアイデンティティーは、日本に帰ってきてからも破壊され続けました。「いいお母さん」を周りから求められるも、出産で身体を更に悪くした私は、子供をかわいいと思う事すらできませんでした(今では目の中にいれても痛くないと思うくらいかわいい天使です!!)。鬱状態だったのです。

そんなとき、ほぼ同時期に出産したママ友からヒーリングを習ってみない?と誘いを受けました。「藁をもすがる想い」とは当時の私のためにあるような言葉で、運動や整体などありとあらゆるものを試しても治らない自分の不調に、「だまされてもいいからそのヒーリングとやらを習ってみよう」という想いでスピリチュアルな世界に足を踏み入れたのです。駄目もとで始めた分、最初の頃は何もみえなくても、エネルギーが感じられなくても落ち込むことはありませんでした。「どうせリーディングはできなくてもいい。ヒーラーになるつもりもない。とにかく生きることが楽になればいい」という想いでした。身体以外にも、親との関係性やキャリアや芸術活動など多岐にわたるテーマで解決したい悩みがありました。当時はとてもそれらが解決するとは思えない状態でしたが、どん底まで落ちると、あとは這い上がるしかないことを本能が察知するのか、毎日瞑想し、トレーニングを続けたのです。

そして、オーラや人の健康状態、過去世、他者との関係性や感情などを透視する能力が次第に開花しました。あるときから、いわゆる「視える人」になり、セッションで誰かのリーディングとヒーリングをしてあげると「身体が楽になった」とか「怪我で動かせなかった指が動くようになった」とか「職場の人間関係がよくなった」と感謝されるようになり、「リーディングとヒーリングを教えて欲しい」と言われ、今日に至っています。

スクールの生徒さんやヒーリング セッションや瞑想会にお越しくださるお客様に「教えていることをちゃんとやってください!根気よく諦めないでやれば必ず光は射します。必要なものが手に入るようになります。自分を好きになります。生きるのが楽になります」といつもお話していますが、それは私が実体験したことなのです。自分がたどってきた道なのです。普通の人間である私がこれだけ人生を変えられたのですから、他の人にもできないはずがありません。サイキックな能力は特別な人に与えられたものではありません。全ての人に備わっているものです。それを正しい心で使うことで、自分だけでなく、世の中に光を放つ存在になれるのです。私は自分の指導に自信を持っています。

スクールで教えている現在も、破壊と再生の神シバは踊り続けています。人間の身体に入って地球を体験している以上、この肉体を離れる日まで、日々試練や問題は起きます。ただ、霊的な成長をしていくと、その目の前の現象の捉え方、感情的なリアクション、実際的な対処の行動が変わってくるのです。他者の美しい本質を見いだせるようになります。「大変だ」「解決できない」「無理だ」と悲観的になることが減ります。何とかなってしまうんです。「仕方ない」が「仕方ある」になるのです。身体の免疫力が上がりますから、健康になってきます。メンタルにも強くなりますから、グラウンディングし、自分の人生に責任を持ち、主体的な行動をとるようになります。あるがままの自分を受け入れ表現しながら人生というダンスをより楽しく踊れるようになります。


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